LOGIN六本木にあるビルの最上階、『Kurose Web Security』本社。
数日振りに出社した、代表取締役CEOである『もう一度、club
「……ふざけるな」
低く、地を這うような呟きが漏れる。――金なら俺が出すと言っているのに。凜の父親の
「……よりによって、クラブに戻るやと?」
アルバイト先から一度マンションへ帰り、定食屋でかいた汗をシャワーで流す。 Estrellaで働いていた頃から、この時間は嫌いじゃなかった。 昼間の自分から少しだけ離れて、いつもとは違う場所へ向かうための時間。 理玖と一緒に暮らすようになってから、いつの間にか忘れていた感覚がぼんやりと蘇ってくる。 シャワーを終え、ドレッサーの前に座った。 髪を整えて口紅を手に取る。 そこでふと、以前なら触れるだけでも緊張していた高級な化粧品が、いつの間にか手に馴染んでいることに気付いた。 理玖に連れられて百貨店でまとめて買ったものも、今ではどれを使うか迷うこともない。 鏡を見ながら、唇に薄く色を乗せる。 化粧を終え、鏡に映る姿を眺める。 シルクのワンピースを着て、高価な化粧品で身支度を整える自分なんて、ほんの少し前までは想像もできなかった。 ふと紗夜の言葉が蘇る。『人は時間とともに変わっていくものでしょう?』――うちも、変わったんやろうか。 鏡の中の自分が、少しだけ知らない人に見えた。 まだ新品の硬さを残すハイヒールに足を通す。 歩くたび、カツ、カツと軽やかな音が響く。 そのまま電車で銀座へ向かった。 待ち合わせ場所として玲奈から送られてきたのは、Estrellaから歩いて十分ほどの場所にある小さな洋食店だった。 まだ夕食には少し早い時間だったが、店内にはちらほらと客の姿がある。「凜、こっち!」 奥の席から手を振る玲奈を見つけ、凜は小さく頭を下げた。「ごめんなさい。少し早めに来たつもりだったんですけど。待ちましたか?」「全然。私も今来たとこ」 向かいの席へ座ると、玲奈が早速メニューを差し出してくる。「ここのオムライス美味しいんだって。たまには普通の料理も食べたくて」「相変わらず、同伴ばっかりなんですね」「そう。いい加減胃もたれしちゃってさ。凜も、こうい
午後二時前。 定食屋のアルバイトを終え、更衣室でスマートフォンの電源を入れると、玲奈からメッセージが届いていた。『それなら、今日の夕方はどう? 銀座で美味しいお店見付けたんだよね。Estrellaに入る前だからあまりゆっくりはできないけど』 突然の申し出だったが、今朝、理玖は誰とどこへ行くのかだけ伝えれば、わざわざ許可を取る必要はないと言っていた。『今日の夕方、玲奈と銀座で食事をしてもいいでしょうか。玲奈がEstrellaへ出勤する前なので、遅くはならないと思います』 ただ予定を伝えるだけでいい。 そう分かっているのに、指はいつもの言葉を打ち込んでいた。 送信してから、定食屋の制服を脱いで私服へ着替える。 髪を整え終えた頃、ロッカーの上に置いていたスマートフォンが震えた。『分かった。帰る時に連絡しろ』 短い返事だった。 凜は玲奈へ『大丈夫です』と返信し、スマートフォンを鞄へしまった。 バックヤードを出たところで、厨房から顔を出した店主に呼び止められる。「凜ちゃん。知り合いの人が来てるよ」「私の、知り合いですか?」 玲奈が来るには、まだ早すぎる。 首を傾げながら客席へ出た凜は、入口のテーブル席に座る人影を見付けて足を止めた。 アイボリーのワンピースを纏った女性が、窓の外を眺めている。 背後で、板前の店員が「あの人、前も一度来た人じゃない?」と囁く声が聞こえる。 堂島電気主催のパーティーで、帰ろうとしていた理玖と凜に声をかけてきた人。――白川紗夜さんが、どうして……? 凜の足音に気付いた紗夜が振り返り、微笑みを浮かべた。「お久しぶり。黒瀬さんの奥様」 声は柔らかいが、凜を射抜くような視線はどこまでも冷ややかだった。「以前こちらにお邪魔したときは、お話もできなかったものですから」「……あの時も、私を訪ねて来たんですか
翌朝、目を覚ました凜は、真っ先にスマートフォンの通知一覧を開いた。 誰からのメッセージも届いていない。 昨夜、大雅が警察に連れていかれたことが、まだ現実味を帯びてこない。 昨夜の騒ぎが記事になっていないか、ニュースサイトで検索する。 けれど、結局大雅について言及した記事は見付からなかった。 試しに、首元に右手を添える。 痛くない。 指先でそっと押すと、皮膚の奥から鈍い痛みが返ってきた。――やっぱり夢じゃない。 凜はほっと息を吐き、隣の理玖を見た。 切れ長の目が今は閉じられ、小さく寝息を立てている。 あんなに、大雅に対して冷静に言葉を返していた人が、今は無防備な姿を晒している。 今更になって、胸の奥が熱を持った。 そっと理玖の顔に近付く。「ほんとに、ありがとう」 理玖が目を覚まさないよう、声を潜めて囁いた。「……ん」 返ってきたのは、寝言のような低い声だった。 いつもの時間なら、理玖ももうすぐ目を覚ます。 先に朝ごはんの準備をしようと、音を立てないようにベッドを抜け出した。 冷蔵庫から卵と豆腐を取り出す。 出汁の香りが広がる頃には、昨夜まで胸に居座っていた重苦しさも、少しだけ薄らいでいた。 だし巻き卵を皿へ移したところで、背後から足音が聞こえる。「朝から随分まともなものを作ってるな」「まともって何よ」「首は大丈夫か?」「うん。もう殆ど痛くないよ」「そうか。なら、いい」 理玖が背後で二人分のマグカップを用意してくれている。 ローテーブルに朝食を並べると、ようやくいつもの日常が戻ってきたような気がした。「大雅のことは、これで終わったんだよね」 思わず零れた言葉に、理玖が「ああ」と返す。「少なくとも、もうお前が一人で対応する必要はない」「…&hell
二人の背後で玄関の扉が閉まり、施錠音が廊下に響く。 凜は靴を脱ぎ、そのままキッチンへ向かおうとした。「休まなくて平気なのか」「お茶でも淹れようかと思って」「いらない。座れ」 理玖がソファを指さす。「でも、理玖も疲れてると思って」「お前が心配することじゃない」 有無を言わせない声に、凜は言われるままソファへ腰を下ろした。 キッチンに入っていった理玖は、しばらくして二人分のマグカップと保冷剤を手にリビングへ戻ってきた。 手渡されたマグカップからは細い湯気が立ち、ほのかにレモンの香りが漂っている。「レモンバームだ。少しは落ち着くだろう」 保冷剤をタオルで包みながら理玖がソファに腰を下ろす。「ハーブティーなんて飲むんだ」 生活感のなかったキッチンからハーブティーが出てきたことに、驚きを隠せなかった。「たまにな。それよりも、これを当てとけ」 そう言ってタオルに包まれた保冷剤を差し出してきた。「病院でもただの打撲だって言ってたし、もう痛くないよ」「いいから」 理玖は凜の返事を待たず、タオルに包んだ保冷剤を首元へ当てた。「冷たっ……」「少し我慢しろ」「自分でできるってば」 茶化すように笑いながら、保冷剤を持つ理玖の手首をそっと押し返す。 理玖は尚も心配そうな目をしていたが、やがて眉間の皺を緩めた。「そこまで動けるなら、大丈夫そうだな」「理玖は心配しすぎだよ」「別に普通だろ」 さっきまで大雅と険しい表情で言い合っていた理玖がむっとした表情を見せ、思わず小さく吹き出してしまう。「なんだよ」「あんなに怖い顔して、大雅とやりあってたのに」「誰のためだと思ってるんだ」「うん。お金のことも、今日のことも、本当にありがとうございます」 凜は笑みを収め、理玖へ向き直って頭を下げた。
病院を出た頃には、六本木の街はすっかり夜に染まり、通りは多くの人で賑わっていた。 仕事帰りらしい会社員たちが飲食店の呼び込みに足を止め、明るい看板の下へ吸い込まれていく。 いつの間にか、左耳の奥を塞いでいた耳鳴りも消えていた。 夜間外来の医師は気怠さを滲ませながらも、凜の首元を丁寧に診察してくれた。 幸い大きな怪我はなく、軽い打撲で済んだ。「この程度で来て、迷惑やったやろうか……」 病院を出てから凜が呟くと、隣を歩いていた理玖の眉間に深い皺が刻まれた。「暴行を受けたんだ。診てもらうのは当然だろう」「そんな大袈裟にしなくても……」「男に摑まれたんだ。たとえ家族だとしても立派な暴行だ。それに、弁護士の竹山も診断書を取るように言ってただろ」「うん……」 凜は小さく頷く。 大雅を警察へ連れていかせる以外に、もっと穏便な方法があったのではないか。 今更になって、そんな考えが頭の中を巡り始める。「まさか、後悔してるのか?」 半歩遅れて歩く凜に気付いた理玖が足を止めた。「後悔、というか……」「悩んでるのか」「もう少し、話し合えたんやないかなって。警察にまで突き出さんでも、うちがもっとうまく――」「凜」 低い声に遮られ、凜は上目で理玖の表情を窺う。 病院のときと同じ、険しい表情だった。「あいつは話し合いに応じなかった。金を渡さないとお前が言った途端、襟元を摑み、俺に殴りかかった」「うん」「暴力を選んだのは大雅だ。お前じゃない」 言い切られても、胸にこびりついた重さは消えなかった。「でも、いざ家族が警察に連れていかれたと思うと、やっぱり……」「気持ちは分からなくもない。だが、これまで散々悩まされてきたんだろう」「それはそうやけど&hel
「理玖!」 大雅の拳が理玖の顔へ届く直前、理玖が身体を横へずらした。 空を切った腕の手首を摑み、その勢いを外側へ逸らす。「離せや!」「これが、お前の答えか」「黙れ! 全部お前のせいや!」 大雅が腕を振りほどこうともがく。 理玖が手を離すと、その勢いで大雅は蹌踉めき、テーブルへ手をついた。「大丈夫ですか!」 竹山が背後の席から駆け寄ってきた。「白鳥大雅さん。これ以上の行為はやめてください」「誰や、お前!」「弁護士の竹山です。黒瀬さんから相談を受け、あなた方が店に入ってきたところから全て見ています」 竹山は大雅との距離を保ったまま、静かな声で続けた。「店員の方や、周囲のお客様も目撃しています。今の行為も含め、言い逃れはできません」 大雅が周囲を見回す。 その目は落ち着きなく左右を何度も往復していた。 家族連れの客たちは横目でこちらを窺いつつも、大雅と視線を合わさないよう顔を伏せている。 若い客の中には、スマートフォンをこちらに向けている者もいた。 先ほど大雅に怒鳴られた店員は、レジで受話器を耳に当て、誰かと話している。「こ、こんなん、ただの姉弟喧嘩やろ。なにを大袈裟に……」 大雅の声が裏返っていた。「姉弟喧嘩で、金を払わなければ入院中の父親のもとへ行くと告げ、金銭を要求するんですか?」 竹山の問いに、大雅が息を詰まらせた。「金を要求するなんて言うてへん! 見舞いに行く言うただけや!」「それが金銭の支払いを迫るための言葉だったことは、これまでの凜さんとのやり取りから見て取れます」「そんなん、そっちの勝手な思い込みやろが!」「では、警察で説明してください。既にこちらからも連絡しています」 竹山の言葉に、大雅の顔色が変わった。「警察……?」 遠くから、複数の足音が近付いてくる。







